映画作家松本人志

 松本人志がどういった考え・映画観を持って第一回監督作品に挑んだのかを知るために、何ヶ月か前に松本の映画批評本2冊を読みきったわけですが、あの本を読んで漠然と感じたのは「松本の映画評自体は割と普通の感覚で書かれているんだな」という事だった。
 チルさんはあまり映画を観る方ではないので松本の感想と自分の感想を比較できる例が少なかったというのもあるけど、その批評本を読んで松本が映画に何を求めているのかを読み解くのはちょっと難しかった。
 松本は大日本人のプロジェクトが始まるよりずっと以前から高須光聖に「映画撮れや映画撮れや」とせっつかれていた。ラジオ番組「放送室」でその辺のやりとりがあったのはよく覚えていて、そこから見える映画観と、第一回監督作品である大日本人を重ね合わせてなかなかに面白い味わいを堪能させてもらった。
 今日になって久々に「大日本人」DVDを見ながら、映画評という分かりやすい形で映画に対する松本のスタンスを感じてしまった事を思い出して少し残念に思えた。大日本人をどう観るかというチルさんの脳味噌にも変な影響が出てしまって少し寂しいのだ。
 (将来映画を撮る時のために、今のうちに「喫茶店で何気なく談笑しているようなシーン」を押さえておいて、何年何十年後の作品にちょこっと使うと「この企画は何年がかりで作られたんだろう」という意味で観客を驚かせられるんじゃないか?)
 みたいな事を松本は語っていた。
 その辺のスケール感の出し方は、冬>春>夏という季節の移り変わりをハッキリと導入した事によって発揮されているのかもしれない。
 映画を撮る意味、理由というものを何年もかけてじっくり考えてきたからこそ、コントの延長線上にはならないように膨大な付加価値をシビアに追求していたのだろうな。
 そういえば「大日本人」であからさまに残念な点があって、それはUAと松本が喫茶店で口論するシーン。UAの反論一つ一つが幼稚じみている点。ここはタレントを起用した事による弊害がハッキリ見えてしまっている。アドリブに任せた部分が大きかったのだろうが、シーンが持つコンセプトとマネージャーというキャラのスタンスをハッキリさせておくべきだった。
 こんなところでこのエントリおしまい。