The Act of Killing

 2014/04/12にシアター・イメージフォーラムで『アクト・オブ・キリング』を見ました。

http://aok-movie.com/about/

 町山智浩さん激賞のドキュメンタリー映画アカデミー賞こそノミネートに留まりましたが世界中の映画祭を席巻、受賞数は50以上だとか。

 それくらい注目度が高まっている作品なのですが、都内で上映されるのがミニシアター一館のみ。おかげで立ち見客が30人以上劇場に押し込められてましたよ。

 この映画の特殊性がどの辺りにあるんだろう? って考えてみたんですが、ノンフィクション映画の製作にまつわるドキュメンタリー映画である事、なんですよね。まずその構図だけでも珍しい。

 じゃあそのノンフィクション映画とはどんな内容なのかと云いますと、1960年代にインドネシア国内で起こった虐殺・殺戮に関する事実を詳らかにするものなんですね。

 じゃあその虐殺・殺戮にはどういう背景があったのかと云いますと、日本でタレント活動しているデヴィ夫人、の夫だったスカルノ元大統領が、軍事的クーデターによって国のトップの座を奪われた事件があるわけです。この結果、デヴィ夫人インドネシアでの生活を捨てて帰国せざるを得なかった。そう考えると、日本人にとってもなかなか見逃せない事件ですよね。

 この映画の上映イベントにゲストとして呼ばれたデヴィ夫人が事件の流れを端的に語っておられたので、webDICEに掲載されていたトークの書き起こしから転載させてもらいます。当事者の言葉ですから、正確かつ分かりやすく背景を伝えるには最適かと思うので。

webDICE
http://www.webdice.jp/dice/detail/4161/

 1965年の10月1日未明にスカルノ大統領の護衛隊の一部が6人の将軍を殺害するという事件が起きてしまいました。(この事件は)その6人の将軍たちが、10月10日の建国の日にクーデターを起こそうとしているとして、その前にその将軍たちをとらえてしまおう、ということだったんですが、実際には、とらえただけではなく殺戮があったんです。

 建国の日には、大統領官邸の前にインドネシアの全ての武器、全兵隊が集まり、その前で立ってスピーチをする予定だったものですから、そこで暗殺をするというのは一番簡単なことだったわけなんです。エジプトのアンワル大統領(アンワル・アッ=サーダート)も軍隊の行進の最中に暗殺されたということは皆さまもご存知かと思いますが、そういったことが行われようとしていたということなんです。

 7番目に偉かった将軍がスハルト将軍で、10月1日の朝早くに、インドネシアの放送局を占領しまして、「昨夜、共産党によるクーデターがあった」「将軍たちが殺害された」と言って、すぐに共産党のせいにしました。

 そして赤狩り(共産主義者への弾圧)と称するものを正当化して、国民の怒りを毎日毎日あおって、1965年の暮れから1966年、1967年にかけまして、100万人とも200万人ともいわれるインドネシアの人たち、共産党とされた人、ないしはまったく無関係のスカルノ信仰者であるというだけで罪を着せられた人々が殺されたといった事件が起こりました。

(以上デヴィ夫人の説明より抜粋)

 ドキュメンタリー映画で数々の実績を残しているジョシュア・オッペンハイマー監督がこの事件に着目し、虐殺の生存者と共に映画製作を試みたが、撮影を開始した2003年にインドネシア軍から脅迫を受けて製作中止を余儀なくされたわけです。

 生存者・被害者は「だったら加害者側に話を聞いてみてはどうか」と監督に提案したそうです。この方針転換は一見簡単に見えますけど、虐殺に加担した人間から話を聞き出すのは一般的に難しい。

 なぜなら「加害者意識の元に弾圧した末の虐殺」に加担した人間はその罪を問われて発言の機会を断たれているから。あるいは、そういった種類の虐殺を行ったという意識を持っているなら自分の所業について語るのは避けたいからです。

 しかしインドネシアにおける虐殺の加害者は、罪に問われてもいないし、加害者としての罪の意識もないわけです。なぜか? インドネシア人は価値観・死生観が特別に異常なのか? そんなわけないですよ。虐殺者・殺戮者になった人々も日本人と大差ない人間性を持っていたはず。

 冷戦時代、大国間の無意味な軋轢に巻き込まれたインドネシアは、アメリカが手引きしたクーデターをきっかけにした共産主義者皆殺しの大号令にまんまと乗せられてしまい、その結果として自由を勝ち取ったという幻想を手に入れたわけです。

 一方的な殺戮の加害者たちは、己の罪に苛まれるどころか戦争に勝利した愛国者という誇りさえ持ってしまっている。

 だからこそ当時の虐殺について語ることに抵抗がないし、オッペンハイマー監督からの「当時の行為をノンフィクション映画の中で再現してみるのはどうか?」という提案も易々と受け入れてしまったんですね。

 アンワル氏がどれほどの非道っぷりで殺戮を繰り返していたのかは、彼の語る言葉からは伝わってきません。普通こういった情報は被害者によって語られるものですからね。アンワル氏にとって重要な当時の記憶とは、どんな方法で人を殺し続けたのかという部分であり、彼は当時の自分の正当性を語ろうともしません。

 アクトオブキリングは、アンワル氏が自伝的映画に捧げようとした情熱を客観的な立場からフィルムに収めた作品であり、その試みが結果的に、世界の秩序を保つフリをしてきた国連の無力さを浮き彫りにしているのです。そのテーマこそ新しさは無いのでしょうが、アプローチとしては圧倒的な斬新さに満ちています。

 さて、映画の内容について書きます。オープニングはアンワル氏と彼の側近であるヘルマンが映画のワンシーンを撮影しようとしている場面から始まります。「子供を奪われて泣き叫ぶ母親の役を誰かやってくれないかなー」と、キャストの現地調達をしている。無邪気で行き当たりばったりな人間性が表現されています。

 結局はこの部分に映画全体のメッセージが凝縮されているように思います。本来は殺人者になるべきでなかった人たちが虐殺を行ってしまったのだ、と。

 虐殺の執行者たちは思い出をほじくり返す事に喜びを感じていて、映画撮影と無関係のところでオッペンハイマー監督と話している時(ドキュメンタリー映画を撮影している時間)もとても楽しそう。虐殺以来失っていた生きがいを取り戻したかのようです。

 アンワルの側近ヘルマンはパンチャシラ青年団という組織に所属しており、簡潔に言えば国家公認のヤクザをやっているのですが、この力士体型ブサイク元気野郎が、劇中映画の中で女装を披露して女役もこなしやがるんですよ。おそらく演じたがる女性がいなかったからだと思うのですが(笑)、ヘルマンが女装する姿はマツコ・デラックスにしか見えないのです! 日本人観客にとってこのジョークは反則!

 しかしヘルマン本人は一切の恥ずかしさも感じているように見えず、熱演を見せます。親分アンワルの悲願である映画の完成を彼もまた願っているのです。女装なんて屁でもありません。

 他にも強烈なキャラクターが続々登場。アンワルと同じく大虐殺に加担したものの罪の意識はまったく感じさせないじじいがわんさか登場。色んな角度からインドネシアの歴史の異常性に光を当てています。

 「殺すかどうかは俺が決めてたんだぜ」と誇らしげに語る新聞社の社長イブラヒム、虐殺の意味をアンワルよりも理解しているがゆえに当時の記憶を都合よく封印しているアディなど、ぶっ飛んだ輩がてんこ盛り。彼らの素性を映画的にうまく語っているため、これが笑いにつながらないわけがないのです。

 笑いに満ちた展開が続き(正直言って、唖然とする場面が多すぎて流れをほとんど覚えていませんが)、いよいよ映画は終盤に。

 ノンフィクション映画の製作総指揮および主演のアンワルが拷問を受ける被害者を演じるシーンに入るのですが、被害者の気持ちを必死にトレースした結果、撮影現場ですっかり疲弊してしまい、「もう被害者演じるのイヤだ…」と弱音を吐くところまで落ち込みます。これは予告編でも見られる描写なのですが、その次に描かれるシーンがまさにクライマックス!!

 編集の終わった自演拷問シーンの映像を自宅で見る際、2人の孫を呼び寄せて「ほら見ろ、じいちゃんがいじめられてるぞ」と嬉しそうにしている場面は、アンワル氏の行動原理の異常さが際立って「なんだこのトンデモ展開!」と大混乱しながら大号泣しました。このじじい何を考えてるんだ!?と。

 作品を見てから何日か経ってあのシーンを思い返しているのですが、こうすることでしか精神の安定を図れなかった、どうにかして肯定的に当時の記憶と向きあおうとしたアンワルという人物にも、時代の波に飲み込まれて歴史的な虐殺に加担させられたという意味で同情の余地があるような気がしてくるんですよね。

 デヴィ夫人の発言にもあるように、国連はアメリカの言いなりになっていてインドネシアの混沌化した状況に対して一切機能せず、人類史に残るような大規模な殺戮が放置されてしまうという悲劇につながってしまった。

 子供が度を過ぎたやんちゃを繰り返した時には親が叱って咎めなければいけない。幼稚なイデオロギー(と思わざるを得ない)の元にクーデターを起こして一国の長の座に就いたスハルトは放置された子供のようなもので、支持政党の違いや僅かな価値観の違いだけで同じ国民同士が殺し合う異常事態に対して国際社会は大人としての責任を果たすべきだったのでしょう。

 その責任の所在を50年の時間を経て改めて問いかけるのがこの映画です。作中のノンフィクション映画が完成に近づくにつれ悲劇の重大さを痛感して押し潰されていくアンワル氏を見ていると、彼や、彼と同じ立場で多くの同胞を虐殺するに至った当事者たちばかりに罪を背負わせるのは間違っていると感じるのです。彼らは大人に見捨てられたがゆえに生まれた似非なる怪物だったのです。

 おそらくこのようなケースはインドネシアだけで起きたことでは無いだろうし、アメリカという国による横暴は他の国でも混沌と無意味な死をもたらしているだろうことは容易に想像できます。

 この映画が映し出す過去と現在は圧倒的という言葉がふさわしく、それを浴びせられた我々は一瞬の戸惑いの後で笑いに飲み込まれます。その戸惑いと笑いの間には感覚の麻痺という過程があります。

 実はこの「麻痺」こそが、アンワルほか多くのインドネシア人を虐殺の執行者にしてしまった最大の要因なのではないでしょうか? その事実を『アクト・オブ・キリング』は2時間あまりの観賞体験で伝えてくれているように思います。

 麻痺によって一部の感覚を失っていたアンワルは映画製作および『アクト・オブ・キリング』への出演を通して50年間に渡る時間を取り戻し、殺戮の重みを理解します。そして彼は映画のラストシーンで嗚咽します。文字通り嗚咽するのです。かつて多くの人々を殺害した建物の屋上で。

 戦争に勝利して勝ち取った自由が幻想に過ぎなかったことを一人の老人が痛感する瞬間なのです。多くの人々を理由もなく殺した人間ですが、それでも私はアンワルに同情とシンパシーを覚えました。正常と異常の間にある壁が脆弱であるかをこれほどまでに理解させてくれる映画は他にないでしょう。

 インドネシアの虐殺に対し、日本の政府は静観するどころか資金面での支援を働いていたとか。どうでしょう。あなたにとってこの映画は見る必要のない作品ですか?