LV

 自分のペースで構想は練っているのです。移動中にニヤニヤする事もしばしば。しばしば?しょっちゅう!
 映画について考えるという作業はとても面白い。去年までの自分がしていたのは映画について思うというレベル。考えたり頭をひねったりしているつもりでも、それはとても矮小なスケールの話だったわけです。
 考えているつもりだった頃の自分は、例えば特定の映画に対して、自分がキープすべき距離感を見定めただけで一定の責任感は果たしていると思っていました。
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 意識としてはバランス感覚を養っているつもりでも、実際は偏ったバランス感覚を磨いていただけかもしれない自分は、それら一連の行為が己の次回作に必ず生かされると信じて疑わなかった。今現在はその点についての不安も覚える。思うだけではどこへも進めない。
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 映画を観る、映画について思う、映画について考える、映画を創る。
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 自分が映画に対してとれるスタンスは大まかに言えば↑こんなところだ。4番目になかなか着手できないのでえいがゾンビを自称しているわけだ。
 映画を観るという行為に関して一般人よりも消極的かもしれない自分は、映画を“たくさん”観たという事を誇る人間が嫌いだった。そういう感情はある意味においてはコンプレックスや恐怖心に過ぎない、のかもしれない。
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 チルさんが言いたかったのは、映画をたくさん観るだけで映画の本質に近付けると思ったら大間違いだ、という事。かといって「おまえら映画創れや!」とは言えない。言わない。言う気はサラサラない。
 映画について考える、という行為が存在しない限り、映画がなんたるかを理解する境地との距離は縮まらない。ゼッタイに。
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 それでは。映画について思うという行為と映画について考えるという行為の違いとは何か。
 アウトプットするかしないか、である。
 映画を観て思った事を外部へ出力しようとした時、適切な言葉・適切な表現が必要となる。その言葉を探そうとするのは映画について考えるという行為に含まれる。
 一人で映画を鑑賞するという行為の危険はアウトプットの必要性が生じないところに由来する。映画鑑賞の9割9分を一人もしくは一人ぽっちで敢行するチルさんが、Taste of Grooovyやえいがゾンビ徘徊すという場を持ち得なかったとしたら、映画鑑賞の過去、それに付随する意味はモクズとなって消え去っていただろうと思う。
 などと書いて個人サイトの中で感想を書いてきた己の過去に次第点を与えたいわけではなく、形にしようとした事によって辛うじて何かを残せたのだろうな、という意味。
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 週刊プロレスの元編集長ターザン山本氏は映画鑑賞会的な催しをたびたび実行しているが、氏は鑑賞後にその映画について参加者達に語らせる。討論の場を設けて意見をぶつけ合う。
 さすがに山本氏くらいの世代になると語る事/アウトプットする事の重要性を痛感しているわけだが、チルさん程度の若輩者世代*1はその重要性に気付いていないのではないか。もしくは語る事を恐れたり軽視したりしかねない。
 映画について考える、という行為が存在しない限り無意味だ。単なる刺激に価値があると考える人以外にとっては。*2
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 逆に。映画を創るという行為について。この行為はパッと見、個人が映画というものに対して確保できるスタンスの中で最も崇高な位置にあると思われがち。
 そうとも言い切れない。
 なめた姿勢で映画製作の場に携わる方が罪深い場合もあるはずだ。
 それを証明するため、必死にプロットを書き上げようとしている。価値のある映画を生み出したい。
 ホント。
 ね。
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 こんな風に書いた文章だけど、映画について考えるという行為には含まれないような気がします。
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 Q.映画をどれくらい観ていますか?
 A.ロクに観ていません
 Q.どれほどのペースで映画を創っていますか
 A.さっぱりです
 …それが、私なのです。えいがゾンビ・チルなのです。そんな自分に何が出来るのか、LVで見つけたい。LVで示したい。

*1:インターネット世代w

*2:石野卓球は刺激としての音楽の意味を真剣に説いていたっけ