フューリー

フューリーを見ました。2014年11月28日、ユナイテッド・シネマとしまえんにて。



http://fury-movie.jp/



デヴィッド・エアー監督、出演はブラッド・ピットマイケル・ペーニャシャイア・ラブーフなどなど。



デヴィッド・エアーといえば現代アメリカを舞台にした犯罪ものを得意とする映画人。先日レビューした『サボタージュ』はモロにそういうタイプの作品でした。



フューリーは第二次世界大戦を舞台にした作品で、デヴィッド・エアーにとっての冒険といえるでしょう。しかしこの人、元アメリカ海軍の軍人らしく、初めてハリウッド作品に関わったのも戦争映画『U-571』だったりします。



ちなみにU-571って母親が応募して当選した試写会で見たんだよなあ。「面白かった」という感触しか残ってないけど。





フューリーを振り返ります。



第二次世界大戦を終わらせるべくドイツ国内に侵攻しているアメリカ軍。双方の消耗は激しかったが、戦況はほぼ決したと言って良かった。それでも末端の兵士たちは戦い続けなければいけない。



小隊?中隊?に所属する戦車がことごとく大破し、生き残ったのは自分たちだけとなったFury号の面々。家族のように結びついていた5人のうち1人は死亡してしまった。車長であるウォーダディ(ブラッド・ピット)は残りの3人を鼓舞して士気を取り戻させようとする。



なんとかキャンプに辿り着くがすぐさま次の指令を受ける。死んだ副操縦士の代役も即座に補充され、彼らに休息するヒマはない。



新たな副操縦士は戦闘経験すらなく、特技はタイプライターという若造・ノーマンである。Fury号の面々にとっては前任者の死も代役の未熟さも受け入れがたい現実であり、それぞれがゴネるものの、ウォーダディは彼らを叱り飛ばす。このノーマンへのリアクションでそれぞれのキャラクターを描く手腕も流石です。



ここで印象的なのは、冷静で職務に殉ずるウォーダディが新任ノーマンの顔(若さ)を目にした時に見せる困惑の表情。



「次に俺が受け止めなければいけないのはこの男の死と、それを全力で回避する責任なのか?」



そんな慟哭が聞こえてくるかのような苦渋の表情。さすがはブラッド・ピット。この芝居だけで物凄い説得力が生まれていました。



ヘタレ丸出しのノーマンの視点は現代という名のぬるま湯に浸かった我々の視点でもあります。トレーニング・デイinWW2といったところでしょうか。現代人にとっての非日常的光景が戦時の日常。Fury号内部の掃除を命じられたノーマンは前任者の遺体の一部を発見して半泣き。この辺の描写のいやらしさは、エアーならではの踏み込み。



フューリー公式ページには「4大バトル」と題して、今作における戦闘シーンがまとめられています。これまで自分が見てきた戦争映画というと歩兵が苦労して泥と血にまみれながら生き続けるものがほとんどでしたが、今作のように戦車が戦闘にしっかり参加している戦争映画は初めて。戦車戦という構図が過去のものとなり、トレンドから外れたということなのでしょうけど、デヴィッド・エアーはそこに勝機を見出したんですね。



「4大バトル」その1は、特定のポイントで戦っている歩兵部隊を援護するために戦車隊が駆けつけるというシチュエーション。



しかし実際は、その現場に到着する直前に待ち伏せにあって戦車が一両大破します。パンツァーファウストという対戦車手投げ兵器で先頭にいた戦車が焼かれ、乗員が焼死。すかさず降車したウォーダディらは自動小銃を手にして敵兵を撃ち殺します。最初の戦闘シーンが降車しての射撃ってところが意外性ありました。しかし観賞メモには「メリハリがない」って書いてあります。画的にメリハリを感じなかったってことですかね。



最初の戦闘を経てノーマンは自分が殺し合いの場にいること、自分も人殺しにならなければいけないことを学びます。常にノーマンを正しい(あるいは誤った)道へ導くのがウォーダディの役目。父性の復権を描いたエアーにはどのような意図があったのでしょうか。



歩兵援護の戦闘シーンは戦争映画ならではの迫力と臨場感に満ちていて、そこに圧倒的な火力を誇る戦車が加わることで新鮮味と爽快感がプラス。乗員5人がどのような役割分担の上で戦車を駆使しているのかをしっかり表現しています。



「4大バトル」その2は町を制圧しようとした戦車隊が反撃を受ける。この戦闘はいまひとつインパクトに欠けた気がします。奇襲を受けた瞬間のショックを強調したいだけでフレッシュなアクションは無かったかなあ。記憶曖昧ですけど。



この辺りの展開は町というシチュエーションが大事なのであって、アメリカ軍人によるレイプ描写などを盛り込むためにタメとしての戦闘シーンがある、みたいな印象です。



レイプ描写とはいってもドイツ人女性には抵抗する様子がなく、悲壮感を強調しようとする意図はまったく感じられません。それが逆に客観的にも見えるし、ドラマ性の弱さにも見えます。



とある一軒家に入ったウォーダディとノーマンは母親によって匿われた一人の娘を発見。ウォーダディはあくまでも紳士的な態度で母子に接し、戦時中ならではの非倫理的な行動に出ようとはしません。



その流れでノーマンはドイツ娘と結ばれます。そんな2人と対になる形で、ドイツ母のもてなし(紅茶)を受けるウォーダディ。この4人は束の間の家族関係を構築しているように見えるのです。この場面の静謐さはとても印象的であり、「ああ、これがやがて決定的に崩壊するんだろうなあ」という予感も覚えました。



事を済ませたノーマンとドイツ娘。4人は食卓につき、ささやかな朝食を摂るのですが、ここでFury号の乗員たちが闖入。家族のような関係性ははかなくもかき消されます。Fury乗員たちの下衆い態度、敵国国民の人権を無視した態度には、戦時における心理の歪みがしっかりと投影されています。



この映画の面白いところは、こういう「人としてすべきでない行動」を背負っているのが全てアメリカ軍側の人間であり、対するドイツ/ナチスの行為には悪意や非道性がまったく盛り込まれていないところです。むしろドイツ人はアメリカの侵攻に必死に抵抗するだけの存在。



ここにアメリカ人が作る戦争映画としての新しさがあるように思います。逆に言えば主人公たちが倒すべき存在に悪役的な色合いが無い分、カタルシスが得られないという弱点につながっていて、作品への評価が伸び悩む要因ともいえるでしょう。



しーかーし、「4大バトル」その3、アメリカ軍シャーマン3両 vs ドイツ軍ティーガー1両の戦車戦の圧倒的な緊迫感は誰が見てもスリリングでアクション的な快感を得られる名場面だと思います。



ティーガーは、総重量・サイズ・装甲の厚さ・主砲の威力…いずれもシャーマンを遥かに上回るスペックの戦車であり、驚異的な性能と戦績を残していたそうです。当時のアメリカ軍は対抗できる戦車を開発できずシャーマンの大量生産でなんとか抵抗。数の暴力で制圧するしか無かったのですが、その戦略には犠牲者がつきもの。



このシーンでも1両のティーガーに対して3両のシャーマンで応戦するのですが、シャーマンの主砲はタイガーの厚い装甲の前に無力であり、逆にティーガーの主砲はシャーマンを一撃で大破に至らしめる。まさに絶望的な差なのですが、それでも逃げるわけにはいかない。ティーガーの凄みを目の当たりにして「Fuckin' Beast!」とわめきながらも戦うしかないのです。モンスターパニック映画なのに、戦わざるを得ない絶望感とでも言いましょうか。



ウォーダディ率いるFury号も主砲をひたすら撃ち続け、恐怖の権化たるティーガー、そして死の予感と戦います。この戦闘の勝敗を分けるロジックが明快で、とても気持ち良かったです。一撃必殺の主砲が自分たちの乗った車両を捉える恐怖感はものすごいですね! この描き方はおそらく前代未聞でしょう。



この戦闘があまりにも素晴らしかったがゆえに、「4大バトル」その4が不完全燃焼に見えてしまっているかもしれません。最後の戦闘シーンはFury号のキャタピラが破壊され移動することが出来ない状態で行われるために、戦車vs戦車の新鮮さには及ばないんですよ。アクションのアイディアは沢山あるしドラマチックな死にっぷりもあるんですけど、やや冗長で散漫。ドイツ兵がすごく間抜けに見えて残念なんですね。



しかし、「十字路で地雷を踏んで動けなくなったFury」「でもその場に残って戦おうとするウォーダディ」その姿を見ていると、ウォーダディという男がなんのために戦ってきたのかが分かるような気がするんですね。つまりウォーダディは死に場所を探していたんじゃないかと。アメリカの勝利のためではなく、何のために生まれたのか、なぜ自分がそれまで死なずに生き長らえたのかを確かめたいがために、無謀な戦いに身を投じたのではないでしょうか。



十字路という場所に縛りつけられたFury、それに己の身を捧げ、殉ずることを選ぶウォーダディ。とても宗教的な意味合いを感じる表現なんですよね。こういうテーマ性を盛り込むデヴィッド・エアーはやはり只者ではないと思いましたよ。



ところどころ斬新で、独自の切り口で描いてみせた戦争映画。グロ・ゴア描写もけっこう踏み込んでますし、かつてない臨場感の戦車戦はとにかく必見! 戦争の意味を考えなおすのに十分な一本だと思いまーす。