the six mechanix

 昨日鑑賞した芝居「ザ・シックス・メカニクス」について色々と書いてみる。
 それにしても演劇を「芝居」と評するのは間違っているのでしょうか。どことなく蔑称のような気がしないでもない。演劇って書けばいいのに。
 以下感想〜長くなったので隠しまーす
 「出口のない部屋に閉じ込められる、そこで何かを強制させられる」というのはベタの極致とも言うべきシチュエーション、だろうか。それを提示した時点から観客との勝負が始まる。
 とにかくこの芝居はシーンごとにテイストがガランガラン変わるので散漫な印象を与えかねない。バリエーション豊かな展開に役者がしっかりしがみついて、多彩なキャラクターを演じきれることができれば物凄いグルーヴ感が生まれる。そんな戯曲です。
 ゲキハロの感想でも書いたけど「演じる事の本質とは何か、への回答」が、一作品内における雑多すぎるテイストの共存という部分にあるように思う。
 最初のヤマは「裏切り者探し」。言葉のスキを突こうと必死になる6人、そこに生まれる緊張感の味わいは与えられたシチュエーションからイメージしやすい範囲である。とりあえずはここをクリアしておかないとバリエーションの広がりに発展しにくい。か?
 負な空気がピークに達したところで、ポジティブな雰囲気に満ちた映画の企画会議というシチュエーションに変転。緊張感を生むのに必死だったキャスト陣は、ここから一気に「笑わせるモード」にギアチェンジしなければいけない。無茶というか、これほどサディスティックな戯曲はなかなか無いと思う。
 企画会議の空気がリアリティを増大させていくにつれてオープニングの密室というシチュエーションのリアリティが薄れ、あれは一体なんだったんだ?という違和感につながっていく。
 明るいトーンはそのままに、企画会議というシチュエーションが突如フェイクになる。「密室に閉じ込められた6人」という現実が再び目を覚ます。観客の認識力が揺さぶられる。6人が眠っていた平行世界の中で団結力という形のポジティブ性を得ている。
 あれ、「芝居の中休み」というシチュエーションがあったのはこの辺のタイミングだったっけ。キャスト陣が「前半の反省点を素になって述べる」という特殊すぎる展開に。このシーンの面白みは、そこに至るまでのスイング感に左右されてしまうので難しいところ。あれだけ全力ダッシュで駆け抜けてきた役者にアドリブで笑いを取らせようとするのはどこのどいつだ!
 円陣を組んでの気合入れの後で(なんじゃそら)、「物語を終わらせろ」という命令を下した人間が6人の中にいる事実が発覚、再び緊張感が膨張する。
 その事実に気付いた人物を、「命令者」が追い詰め、殺害する。ホラー屋さんの山本氏にとってもこういったシンプルな殺人描写は意外と難儀なのではないかと推測。(あれだけ極まったシーンをシンプルと評するのは安易すぎるか。)
 その殺人もすぐにフェイクに埋もれていく。着いて行くのが大変である。殺したはずの相手が密室から消えている。一方的に解き放たれるシュレディンガーな与太話でカオスさは急速に高まっていく。
 シチュエーションが解き放たれる。新たな平行世界が提示される。夢オチの可能性浮上。多重人格な作家というモチーフは「街」の市川シナリオと同じだろうきっと。(他にも例はありそうだ)
 つまりはシチュエーション=平行世界を着たり脱いだり脱いだり着たり。そんな展開。最終的には映画の企画会議という現実が観客の目の前で終結する。
 展開を追っていくだけならこんな感じです。こういうスタイルの上に質の高さを成立させるのはとても難しいでしょう。しかし、確かに、それに挑んだ人間がいたのだ。山本清史だ。稽古期間はおよそ一ヶ月。そんなもんか。そんなもんか!? なんだか凄いな。役者ってのは凄いんだな。きっとそうだ。
 劇中で映画監督という立場の人間の慟哭が怒涛の圧力で迫ってくる。あのシーンのテンションの高さは今作でも特異で、そこにこめられたメッセージ性には一定の感心を抱いたのだけど、現実の山本清史が抱えている苦悩はもっと深いような気がします。
 それにしても、ああいったセリフを戯曲として成立させるのは勇気がいる。モノカキとしてのPRIDEが不可欠である。物語を生み出す者としての魂が確かに感じられる作品でした。うん。凄い。
 雑多すぎるテイストの共存というのは、ある程度型にはまったフィクションを生み出す事を生業としている山本氏の<不完全燃焼感>があったがゆえに到達できた領域だったような気がします。
 ここまで己を曝け出した作品だとは思わなかった。まさに集大成といったところでしょうか。チルさんの現在の生活にもうちょっと余裕が無かったらこの作品を見逃していたかもしれません。
 2008年12月11日、俺は凄い芝居を観た。(感想らしい感想じゃなくてごめんー。)